練馬のヴェルサイユ宮殿

2019/07/16

外構工事が終わったの

で、久しぶりに練馬の現場を見に行きました。お客様のイメージが「ヴェルサイユ宮殿」でしたので、とても良く出来たと思います。

私の中では「練馬のヴェルサイユ宮殿」だと思っています。外観も良く出来ていますが、内部もヴェルサイユ宮殿そのものです。

お客様はフランスが好きで何度も行かれる内に今度の家はフランスの「ヴェルサイユ宮殿」にしたいと家族の意見がまとまったそうです。

「ヴェルサイユ宮殿」はルイ13世が狩猟用に作った邸宅でしたが、17世紀半ばに太陽王と呼ばれたルイ14世が増築を繰り返し作り上げたのがヴェルサイユ宮殿です。

この宮殿には王族だけでなく貴族が住み、生活を送っていました。庭園には民衆も入ることが許されており、民衆も入ることが許されており、その豪華な宮殿と庭を見て民衆は王の力の巨大さを知ったといいます。

当時の最高の職人たちを招いて完成した宮殿とフランス式庭園は、いずれも高い芸術性を持ち、それぞれの作者の最高傑作と言われています。

ルイ16世の時代まで国王の居城として使用された後、1837年、ルイ・フィリップ王の時代に、フランス歴史博物館として生まれ変わりました。1955年以降は、国の管轄となっています。

浦和の家Ⅱ

2019/07/07

先日、引渡し前の浦和の家をみにいきました。外壁は人気の赤レンガで、テラスは白いタイル,手摺は白色のFYPONです。

外観は当初のイメージ通りに出来上がって良かったです。内部はキッチンを含めてお客様のセンスの良さが見られてとても素敵に仕上がっていました。

浦和は住宅地としての人気は関東大震災以後急速に高まった。震災前の大正5年初頭の新聞紙上において東京近郊の理想的な住宅地・別荘地を投票により選定する企画が行なわれた。

浦和町は郊外住宅地部門で9位、別荘地部門で8位に入賞し、良好な郊外住宅地として認知されていた。具体的な理由は、東京への近さ、教育環境の充実、下水道整備率の高さなどが挙げられていた。

また、鹿島台の風光明媚さや災害の不安が無いことことも記され、当時はまだ畑も多く宅地開発の余地があった鹿島台が住宅地として注目されていたことがわかる。

震災直前には鹿島台に官吏や教員向けの町営住宅を建設しており、また大正11年9月には浦和耕地整理事業が着工し、町としても浦和の住宅地・別荘地の期待や住宅不足に対応するため実際に宅地としての開発が本格化していた。

その後も現在に至るまで都心から近い閑静な住宅地として人気を保ち続けている。

浦和区の世帯所得は年収1000万円以上が20パーセントを超えるなど、高級住宅地が多い世田谷区や渋谷区をよりも、比率が高く、首都圏でも最高水準を記録している。

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 「黄バイ」

2019/06/19

このバイクをご存知ですか?パトランプや装備など、一見すると警視庁の白バイモデルと思うライダーも多いのでは。この「黄色い働くバイク」は通称「黄ばい」と呼ばれる。首都高速パトロール隊です。

首都高パトロール株式会社は、首都高速道路株式会社のグループ会社の一つ。主な業務は首都高速の安全を「より安全に」「より迅速に」「より的確に」を掛け声に、日々首都高速の安全走行を守るために活躍している。

首都高パトロールの基本業務はまず、首都高速管内3箇所にある交通管制室においてお客様に最新情報を提供する。「交通管制業務」。定期的に全線を巡回監視し交通事故、故障車、落下物異常事態の発生に対応する「巡回業務」。

特殊な車両を交通事故で大きく破損した車両や、故障車両の緊急排除を行う「特殊車両運用業務」。警察、消防等と連携して道路法違反車両に対する取り締まり、重量違反車両に対する指導・警告を実施する「取り締まり業務」などが主な業務らしいですね。

そして今回紹介する「黄バイ」。首都高速の中央環状山手トンネルという限られた区域を専用とし、トンネル内の緊急事態発生時の迅速な安全活動を行う業務が「バイク隊」だ。

千石船「白山丸」1

2019/05/22

佐渡島の小木町の「宿根木」で実物大の北前船に遭遇しました。船の名前は千石船「白山丸」本物の北前船を見て以前から興味のあったとても興奮しました。まさか
新造の「北前船」を見れるとは‼

「北前船」は、瀬戸内海から松前の間の日本海側を航行する、積み荷を各地で売買する商船のことを指します。後にそう呼ばれるようになったもので、当時は「北国船(ほっこくせん)」とか「弁財船(べんざいせん)」などと呼ばれていました。

北前船が活躍したのは江戸時代の半ばから明治の20年代ごろまで。流通が発達していなかった当時、ものの値段は地域によってまちまちでした。

北前船はものを安いところで買い、たかいところで売りさばき、その差益で成り立つ商売です。北前船が盛んに行き来する日本海沿岸の諸都市は、船が運ぶモノと情報で栄えました。

瀬戸内海から松前まで、江戸時代に一気に航路が栄えたわけではありません。日本海での船の行き来は昔からありましたが、ほぼ自給自足に近い生活をしていた頃は、税を除けば国をまたいで運ぶものはわずかで、長距離輸送に耐えて大量に物を運べる船がありませんでした。

戦国時代になると、越後から青苧(あおそ)を積んだ船が盛んに越前の敦賀へ航行するようになります。当時は京都が日本の中心地で、北陸、東北からは敦賀から琵琶湖を経由して京都へ向かうルートを使い、それを超えて西国や、瀬戸内海経由で大坂などへ行くことはありませんでした。

西では西国の船が航行し、敦賀や琵琶湖のほとりの大津が西と東の接点、東西から来る船の折り返し地点でした。

金の島 「佐渡ヶ島」

2019/06/01

佐渡ヶ島は、古く8から「金の島」として知られていた。平安時代末期(12世紀前半)に編まれたとされる説話集『今昔物語集』には、能登の国司に仕えた鉱夫が佐渡に派遣され、千両ほどの金を持ち帰ったという話がある。

能の大成者である世阿弥は、流刑地の佐渡でつづった小謡(こうたい)集に『金投書(きんとうしょ)』(1434年作)と名付けた。佐渡最古の砂金山といわれる西三川砂金山の操業が1460年頃。そのため、当時は主に砂金を採集していたとかんがえられる。

1542年に鶴子銀山が発見された事で、鉱山の採掘技術と運営方法が佐渡で蓄積されていく。そして、1601年に鶴子銀山の山師によって相川金銀山が発見されると、

それまでに集積した鉱山技術によって一気に開発は進み、「金の島 佐渡」としての歴史が本格的に動き出す。

相川金銀山の発見から1年後の1602年、初代佐渡代官になった田中清六から徳川家康のもとに1万貫の銀が送られた。金に換算すると17万両(現在の価値で推定200億円)ほどの価値になるという。

現在の相川金銀山は一般に「佐渡金山」と呼ばれているが、17世紀初頭は銀の採掘量の方が多く、当時世界一と言われたボリビアのボトシ銀山に次ぐ銀の山でもあった。最盛期には年間400キログラムの金とともに、40トンに及ぶ銀が採掘されていたという。