おめでとう!天草 世界文化遺産登録 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」

2018/06/30

おめでとうございます!長年の希望であった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が日本で22件目の世界文化遺産への登録されました。

 

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、2世紀以上にわたるキリスト教禁教政策の下でひそかに信仰を伝えた人々の歴史を物語る他に例を見ない証拠です。

 

 

15世紀半ばに始まるポルトガルの世界進出は、15世紀末にアジアへと到達した。ポルトガル国王の要請を受け、イエズス会宣教師による宣教活動も活発となり、その活動はインドを拠点として展開された。

1549年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは中国船に便乗して鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を広めた。宣教師はキリスト教を広めるにあたって、まず領主(大名)に教えを説き、仏教からキリスト教へと改宗させた。

そして彼らを介してその家臣や領民をキリスト教へ改宗させるという方法をとった。領主が改宗しない場合、礼物を持参し貿易を斡旋するなどの方法をとり、大名の家臣や領民に対してキリスト教を宣教する許可を得て活動を行った。

戦乱の中で日本を統一した豊臣秀吉は、宣教師とキリシタン大名の結びつきが強くなって領地を譲ったり秀吉にとって都合の悪い行動が見られたことにより、「バテレン追放令」を発令した。

秀吉の死後、江戸幕府を開いた徳川家康は当初キリスト教への信仰を黙認したが、徳川氏中心の封建体制を確立するためにキリスト教禁教令を発した。

このような厳しい状況にあっても、密かに信仰を続けることを選択した潜伏キリシタンの人々が長崎と天草地方に残っていた。

 

 

 

 

 

 

白虎隊 飯盛山

2018/06/13

私の中で会津藩といえば、白虎隊である。白虎隊は、会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。

慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新幕府軍の仇敵となった。

白虎隊は本来は予備兵力であった。隊は士中隊、奇合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度とされた。なお、装備していた火器は旧式銃(ヤゲール銃、ゲベール銃の短銃神化、前装装条銃)のみであったとされる。

これは火縄銃よりはましというレベルの装備であり、新政府軍の主力たる西南雄藩部隊の装備に対して著しく劣っていた。

会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に務めたが、圧倒的な物量でせまる新政府軍に対しては劣勢は否めず、

白虎隊も各所で苦戦を強いられ、戦死者も少なからず有り、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた。

この時、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、結果総勢20名が自刃を決行し唯一喉を突いた飯沼貞吉のみが、一命を取り留め、その他19名が死亡した。

この様な、悲劇が今でも会津では語りつがれている。

会津藩校 日新館

2018/06/13

伊佐須美神社参拝の後 会津若松市内の会津藩校「日新館」を訪ねました。
「日新館」は、人材の育成を目的に1803年に建設された会津藩の最高学府。

藩士の子弟は10才で入学して学問や武道に励み、心身の鍛錬に務めました。
約8千坪の敷地に武道場や天文台、日本最古のプールといわれる水練水馬池などがあり、

15才までは素読所(小学)に属し、礼法、書学、武術などを学んだ。素読所(小学)を修了した者で成績優秀者は講釈所(大学)への入学が、認められ、そこでも優秀な者には江戸や他藩への遊学が許された。

全国に数ある藩校の中でも屈指の教育機関であるといえる。

新島八重の実兄・山本覚馬や白虎隊の少年達をはじめ、多くの優秀な人材を輩出。覚馬はのちに、この日新館で蘭学の教授も務めました。

1868年、戊辰戦争により校舎は焼失。現存するのは会津若松城跡西側に残る天文台のみ。

実際の藩校は焼失したものの藩校に関する図面などの資料が残っていたため総工費34億円
を費やし、1987年3月に会津藩校日新館として、完全復元、開館した。

この施設は、博物館、道場(弓道場、武道場)・研修や宿泊施設・映画撮影所などを兼ねており、各種の武道団体も頻繁に練習や合宿に利用している。

 

伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)

2018/06/13

伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)は、福島県大沼郡会津美里町宮林にある神社。式内社(明神大社)、陸奥国二宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

会津盆地南縁の宮川沿いに鎮座する、陸奥国二宮・会津総鎮守である。「会津」という地名は、第10代崇神天皇(すじんてんのう)の時に派遣された四道将軍(しどうしょうぐん)
のうちの2人、

北海道を進んだ大彦命(おおひこのみこと)と東海道を進んだ建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)とが会津で行き会ったことに由来するといわれ、

二人が会津の開拓神を祀ったのが伊佐須美神社の創建とされる。会津地方では、古墳時代前期にはすでにヤマト王権特有の大型前方後円墳が築造されており、

王権勢力の東北地方への伸長の実情を考える上で重要な要素を担う神社である。

 

境内は広く、内部には鬱蒼とした鎮守の森が広がる。社殿は平成20年の火災で焼失したため、現在は仮社殿を設けた上で再建中である。

また文化財として、室町時代の朱漆金銅装神輿(国の重要文化財)を始めとする多くの社宝・天然記念物・神事を現在に伝えている。

この伊佐須美神社を参拝してとても、「古事記」や「日本書紀」に出てくる神様にふれた様な気がしました。

会津芦ノ牧温泉「大川荘」

2018/06/12

会津芦ノ牧温泉「大川荘」は、会津若松市にあり、山と川の自然美が織りなす絶景の渓谷沿いに建っています。会津若松の市内中心部から車で30分ほど山間の道を走り、「芦ノ牧温泉」

の大きな看板が正面に見え始める頃、阿賀川(大川)にかかった橋の上から、渓谷沿いに建つ白い建物が「大川荘」でした。滔々と流れる深緑色の川と迫りくる山々。

その渓谷沿いに建つ「大川荘」。その立地にどうやって建てたの?と感嘆せずにはいられません。橋の上から川向こうに「大川荘」を眺めつつ、阿賀川(大川)を迂回するように大川荘に着きました。

エントランスからフロントロビー、ラウンジへと広がる美しい木造空間。目にも優しい木の温もりあふれる立体的な広がりが、すばらしいです。

そして、和服に身を包んだ演者が奏でる三味線の凛とした音色が、伝統的な伝統的な日本旅館の情緒深さを一層ひきたていました。

部屋から眺める阿賀川と雄大な渓谷美、そして飛び交うたくさんのツバメ、さっそく浴衣に着替えて、旅館自慢の「空中露店風呂」に入りました。たしかに、景色もお湯もすばらしいです。

温泉旅館に宿泊したら、夕食は最も楽しみの一つです。和食膳で生ビールと福島の地酒をいただきました。福島の日本酒はおいしいです。