『国重要文化財 祗園橋』

2019/06/15

ひさしぶりに本渡の町山口川に架かる「祗園橋」を見ました。半世紀前はほぼ毎日この橋を見ながら この川沿いに母校に通っていましたので、さすがに懐かしいですね。

この祗園橋は、天草市の 町山口川に架かる石橋で国の重要文化財にも指定されています。この石橋は、天保(1832年)町山口村の庄屋、大谷健之助の発案で、下浦村の石屋、辰右衛門により、地元の砂岩を用いて建造されました。

これは多脚式のアーチ形石橋で、長さ28.6m幅3.3mありと石造桁橋としては日本最大級です。石材を5本ずつ9列に並べ、計45本の石材で支えられています。

上流側は石材の角を上流に向けて水切りを良くして、下流側は根元を開き気味に立て水圧に耐えることができるように設計されています。

また、この付近は島原・天草の乱の激戦地のひとつでもあります。寛永14年(1637年)11月、町山口川を挟んで天草四郎の率いる一揆勢と富岡城番代 三宅都藤兵衛の唐津藩が激突し、双方に多くの戦死者がでました。

その数は数百千とも言われ、それらの死体により川はせき止められ、血で赤く染まったと言われています。

石橋自体は江戸後期に架けられたものですが、石橋の下にある岩は島原・天草の乱当時から変わらないと言われています。干潮時には苔に覆われた岩肌があらわになり
歴史の面影を感じることができます。

 

ゴールドラッシュの佐渡

2019/06/01

金銀山を重視した家康は、江戸幕府を開いた03年に佐渡を直轄地の天領とする。鉱山経営に通じていた側近の大久保長安を佐渡代官として送り込み、佐渡金銀山だけでなく、相川の町の改革にも当たらせた。

それまで20軒足らずの寒村に過ぎなかった相川は、17世紀前半には人口5万人という巨大な鉱山町へと変貌する。5万人といえば、17世紀後半に商人でにぎわった長崎とほぼおなじ人口である。

相川の広さは約4キロメートル四方で、人が住める人が住める市街区域はその半分ていどしかなかった。そのため、当時としては珍しい3階建ての家屋があったという。

現在の相川町は埋め立てによりかなり海岸線が広くなっています。広くなった場所に市役所や消防署などの公共施設が建てられています。

佐渡は世阿弥以外にも、順徳上皇や日蓮聖人といった歴史上の人物が流された地だ。そのせいもあり、佐渡金銀山と言えば罪人が働かされていたというイメージが根強いが実際は、山師と呼ばれる職人のほかに、無宿人と呼ばれる人々も働いていました。

江戸時代中期に入ると各地で天災や飢饉が多発して、家や職を失った無宿人が大挙して江戸に流入してきます。無宿人は罪人ではありませんが、犯罪予備軍とも考えられ、その対策に幕府は苦慮していたのです。

開山当初は比較的地面に近い場所での露天掘りだったが、段々と地面から深く坑道が延び採掘は重労働になり、高い労働賃金が払われる鉱山労働者に、当時江戸で増加していた。無宿人が佐渡に送られ、鉱山労働者になりました。

金の島 「佐渡ヶ島」

2019/06/01

佐渡ヶ島は、古く8から「金の島」として知られていた。平安時代末期(12世紀前半)に編まれたとされる説話集『今昔物語集』には、能登の国司に仕えた鉱夫が佐渡に派遣され、千両ほどの金を持ち帰ったという話がある。

能の大成者である世阿弥は、流刑地の佐渡でつづった小謡(こうたい)集に『金投書(きんとうしょ)』(1434年作)と名付けた。佐渡最古の砂金山といわれる西三川砂金山の操業が1460年頃。そのため、当時は主に砂金を採集していたとかんがえられる。

1542年に鶴子銀山が発見された事で、鉱山の採掘技術と運営方法が佐渡で蓄積されていく。そして、1601年に鶴子銀山の山師によって相川金銀山が発見されると、

それまでに集積した鉱山技術によって一気に開発は進み、「金の島 佐渡」としての歴史が本格的に動き出す。

相川金銀山の発見から1年後の1602年、初代佐渡代官になった田中清六から徳川家康のもとに1万貫の銀が送られた。金に換算すると17万両(現在の価値で推定200億円)ほどの価値になるという。

現在の相川金銀山は一般に「佐渡金山」と呼ばれているが、17世紀初頭は銀の採掘量の方が多く、当時世界一と言われたボリビアのボトシ銀山に次ぐ銀の山でもあった。最盛期には年間400キログラムの金とともに、40トンに及ぶ銀が採掘されていたという。

熊本城

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2015/10/20

研修会の最終日は昼食を熊本ラーメンを食べて、熊本城を案内しました。もちろん 木造の宇土櫓もです。