ゴールドラッシュの佐渡

2019/06/01

金銀山を重視した家康は、江戸幕府を開いた03年に佐渡を直轄地の天領とする。鉱山経営に通じていた側近の大久保長安を佐渡代官として送り込み、佐渡金銀山だけでなく、相川の町の改革にも当たらせた。

それまで20軒足らずの寒村に過ぎなかった相川は、17世紀前半には人口5万人という巨大な鉱山町へと変貌する。5万人といえば、17世紀後半に商人でにぎわった長崎とほぼおなじ人口である。

相川の広さは約4キロメートル四方で、人が住める人が住める市街区域はその半分ていどしかなかった。そのため、当時としては珍しい3階建ての家屋があったという。

現在の相川町は埋め立てによりかなり海岸線が広くなっています。広くなった場所に市役所や消防署などの公共施設が建てられています。

佐渡は世阿弥以外にも、順徳上皇や日蓮聖人といった歴史上の人物が流された地だ。そのせいもあり、佐渡金銀山と言えば罪人が働かされていたというイメージが根強いが実際は、山師と呼ばれる職人のほかに、無宿人と呼ばれる人々も働いていました。

江戸時代中期に入ると各地で天災や飢饉が多発して、家や職を失った無宿人が大挙して江戸に流入してきます。無宿人は罪人ではありませんが、犯罪予備軍とも考えられ、その対策に幕府は苦慮していたのです。

開山当初は比較的地面に近い場所での露天掘りだったが、段々と地面から深く坑道が延び採掘は重労働になり、高い労働賃金が払われる鉱山労働者に、当時江戸で増加していた。無宿人が佐渡に送られ、鉱山労働者になりました。

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