佐渡おけさ

2019/06/08

佐渡市相川町の温泉旅館での余興で佐渡おけさが披露されたのですが、天草出身の私は非常に懐かしく思えました。「佐渡おけさ」の源流が天草市の「牛深ハイヤ節」が源流と説明があり納得しました。

全国的に有名な「佐渡おけさ」は佐渡市北西部、相川町の民謡。同地方で7月25日から3日間開催される「鉱山祭」のパレード用の唄(うた)としてうたい踊られてきたもの。

その源流は熊本県天草市牛深(うしぶか)町 生まれの酒盛り唄「牛深ハイヤ節」で、これが帆船の船乗りたちによって諸国の港へ伝えられたおり、佐渡では小木(おぎ)港へ持ち込まれた。

それがのちに相川金山にも伝わり、酒盛り唄、さらに選鉱場でも歌われるようになった。ところが1896年(明治29)11月、相川金山が民営化される記念に、翌年8月13日から3日間「鉱山祭」を催すことになった。

この時鉱山労働者たちは先の「選鉱場節」に花い笠をかぶり、踊りを加えて、町を流して回った。この時は「選鉱踊り」の名で演じられていたが、1906年(明治39)
ごろから越後(えちご)側の流行り唄「おけさ」にあやかって『相川おけさ』と改名した。

その後24年(大正13)6月10日に地元有志による民謡団体「立浪(たつなみ)会」の結成があり、名人村田文蔵が入会。

26年に日畜レコードに吹き込むに際し、会社側から、「相川」より「佐渡」の方が世間へのとおりが良いといわれて『佐渡おけさ』と改名、以後、島の観光用の歌として広まっていった。

千石船「白山丸」2

2019/05/22

これが崩れるきっかけになったのは豊臣秀吉の時代です。大坂城築城など大規模な土、木工事を行ったこの時代、木材や、石材の近郊での確保が難しくなり、秋田など全国各地から木材を取り寄せる際、積出港から直接 大坂で陸揚げされるようになりました。

朝鮮半島へ派兵した文禄の役(1593年)では、越後の上杉家も含め全国の大名が、これまで東西の境界となっていた敦賀を越えて佐賀に集結しています。

江戸時代に入ると食糧が安定して生産できるようになり、各地で取れた作物を出荷するために、輸送への需要が高まります。

諸藩は徴収した年貢を、できるだけ高い値段で売れる場所へ、しかもできる限り低いコストで運ぼうとしました。

船での輸送は難破や漂流の危険が伴い、本州を一回りするわけですから日数もかかりましたが、陸路で運ぶよりは安く済みました。一方、幕府は江戸市中の米不足解消のため奥羽地方の幕僚から、太平洋側を通って江戸まで米を移送するための航路開設を河村瑞賢にたくします。

その成功の後1672年には出羽の幕領から日本海側を通って江戸へ移送するルートを整備。これがいわゆる西廻り航路です。このルートの整備以降、発展することになりました。

年貢米の売買、商品経済の発展に加えて蝦夷地の開発が進みます。当時蝦夷地は、昆布やニシンなど特産品に恵まれる一方、主食の米が実らない土地であったため、北前船にとっては格好の拠点となります。

江戸時代後半は米の凶作が続き、米の他国だしをストップする藩が続出しますが、その間北前船の繫栄を支えたのは蝦夷地でした。

7月の白山丸祭りでは、青空に帆を広げた姿を見たいものです。

千石船「白山丸」1

2019/05/22

佐渡島の小木町の「宿根木」で実物大の北前船に遭遇しました。船の名前は千石船「白山丸」本物の北前船を見て以前から興味のあったとても興奮しました。まさか
新造の「北前船」を見れるとは‼

「北前船」は、瀬戸内海から松前の間の日本海側を航行する、積み荷を各地で売買する商船のことを指します。後にそう呼ばれるようになったもので、当時は「北国船(ほっこくせん)」とか「弁財船(べんざいせん)」などと呼ばれていました。

北前船が活躍したのは江戸時代の半ばから明治の20年代ごろまで。流通が発達していなかった当時、ものの値段は地域によってまちまちでした。

北前船はものを安いところで買い、たかいところで売りさばき、その差益で成り立つ商売です。北前船が盛んに行き来する日本海沿岸の諸都市は、船が運ぶモノと情報で栄えました。

瀬戸内海から松前まで、江戸時代に一気に航路が栄えたわけではありません。日本海での船の行き来は昔からありましたが、ほぼ自給自足に近い生活をしていた頃は、税を除けば国をまたいで運ぶものはわずかで、長距離輸送に耐えて大量に物を運べる船がありませんでした。

戦国時代になると、越後から青苧(あおそ)を積んだ船が盛んに越前の敦賀へ航行するようになります。当時は京都が日本の中心地で、北陸、東北からは敦賀から琵琶湖を経由して京都へ向かうルートを使い、それを超えて西国や、瀬戸内海経由で大坂などへ行くことはありませんでした。

西では西国の船が航行し、敦賀や琵琶湖のほとりの大津が西と東の接点、東西から来る船の折り返し地点でした。

ゴールドラッシュの佐渡

2019/06/01

金銀山を重視した家康は、江戸幕府を開いた03年に佐渡を直轄地の天領とする。鉱山経営に通じていた側近の大久保長安を佐渡代官として送り込み、佐渡金銀山だけでなく、相川の町の改革にも当たらせた。

それまで20軒足らずの寒村に過ぎなかった相川は、17世紀前半には人口5万人という巨大な鉱山町へと変貌する。5万人といえば、17世紀後半に商人でにぎわった長崎とほぼおなじ人口である。

相川の広さは約4キロメートル四方で、人が住める人が住める市街区域はその半分ていどしかなかった。そのため、当時としては珍しい3階建ての家屋があったという。

現在の相川町は埋め立てによりかなり海岸線が広くなっています。広くなった場所に市役所や消防署などの公共施設が建てられています。

佐渡は世阿弥以外にも、順徳上皇や日蓮聖人といった歴史上の人物が流された地だ。そのせいもあり、佐渡金銀山と言えば罪人が働かされていたというイメージが根強いが実際は、山師と呼ばれる職人のほかに、無宿人と呼ばれる人々も働いていました。

江戸時代中期に入ると各地で天災や飢饉が多発して、家や職を失った無宿人が大挙して江戸に流入してきます。無宿人は罪人ではありませんが、犯罪予備軍とも考えられ、その対策に幕府は苦慮していたのです。

開山当初は比較的地面に近い場所での露天掘りだったが、段々と地面から深く坑道が延び採掘は重労働になり、高い労働賃金が払われる鉱山労働者に、当時江戸で増加していた。無宿人が佐渡に送られ、鉱山労働者になりました。

金の島 「佐渡ヶ島」

2019/06/01

佐渡ヶ島は、古く8から「金の島」として知られていた。平安時代末期(12世紀前半)に編まれたとされる説話集『今昔物語集』には、能登の国司に仕えた鉱夫が佐渡に派遣され、千両ほどの金を持ち帰ったという話がある。

能の大成者である世阿弥は、流刑地の佐渡でつづった小謡(こうたい)集に『金投書(きんとうしょ)』(1434年作)と名付けた。佐渡最古の砂金山といわれる西三川砂金山の操業が1460年頃。そのため、当時は主に砂金を採集していたとかんがえられる。

1542年に鶴子銀山が発見された事で、鉱山の採掘技術と運営方法が佐渡で蓄積されていく。そして、1601年に鶴子銀山の山師によって相川金銀山が発見されると、

それまでに集積した鉱山技術によって一気に開発は進み、「金の島 佐渡」としての歴史が本格的に動き出す。

相川金銀山の発見から1年後の1602年、初代佐渡代官になった田中清六から徳川家康のもとに1万貫の銀が送られた。金に換算すると17万両(現在の価値で推定200億円)ほどの価値になるという。

現在の相川金銀山は一般に「佐渡金山」と呼ばれているが、17世紀初頭は銀の採掘量の方が多く、当時世界一と言われたボリビアのボトシ銀山に次ぐ銀の山でもあった。最盛期には年間400キログラムの金とともに、40トンに及ぶ銀が採掘されていたという。