2022/03/22
今日はお彼岸なので甲府市にある善光寺にお参りに行きました。参拝客は7年に一度の御開帳が4月から始まるのでいつもよりは、多いような気がしました。
せっかく甲府に来たので近くの武田信玄公を祀られている武田神社にお参りをしようと思い国立山梨大学の北側に位置する武田神社にお参りに行きました。ここは山梨県の一番の観光スポットですので、参拝客も全国各地の方で賑わっていました。
武田信玄というと、戦国最強といわれる武田軍を率いて、数々の戦をしたことから武力派のイメージが強いかもしれません。しかし、内政にも力を注いで領民から慕われていた一面も持ち合わせていた武将と言われています。
武田信玄は、1521年(大永元年)に甲斐国(現在の山梨県)で生まれた戦国武将です。当時戦国最強とも言われた騎馬兵を率いた武田信玄は、織田信長も恐れるほどの武力を誇りました。天下統一を目指して上洛を見据えますが、病に倒れて志半ばで亡くなります。
もし武田信玄が病に倒れていなければ、日本の歴史も変わっていたのではないかと考える人もたくさんいるほどです。現在広く知られているのは「武田信玄」という名前ですが、こちらは本名ではありません。「信玄」という名前は、39歳の時に出家した際の法号です。
武田信玄の本名は「武田晴信」。幼名は太郎でしたが、元服した時に室町幕府第12代将軍・足利義晴「晴」の字を賜り、「晴信」と名のるようになりました。
武田信玄は武力だけでなく、内政にも政治手腕を発揮します。「甲州法度次第(こうしゅうはっとのしだい)」という分国法を制定。検地や棟別調査を行い、優秀な家臣を各地の城将として配置するなど家臣団の増強を図りました。
また、甲斐の領地や甲府盆地には川の氾濫により利用できる耕地が少なく、年貢収入の期待が薄かったため、武田信玄は治水に注力することで、新田開発を積極的に行いました。ほかにも金山の開発をして、金貨を製造・流通させることで領民を潤わせたそうです。
武田信玄というと、越後の国(現在の新潟県)など北陸地方を支配していた上杉謙信とのライバル関係が有名です。武田信玄と上杉謙信は互いの領地に挟む信濃(現在の長野県)巡って、1553~1564年の11年もの間に5度も川中島で合戦を行いました。
この合戦においては、お互いに小競り合いはしても、激しい衝突は少なかったそうです。武田側に大きな被害が出たのは、1回目と4回目の合戦ぐらいだったと言われています。5度目の合戦では、衝突すらありませんでした。
その理由として、武田信玄は信濃を手に入れるために戦っていたのに対し、上杉謙信は自分の領地の越後を守るために戦っており、互いに戦う目的が違っていたからではないかという見解があります。
武田信玄が越後を攻めようとすれば上杉謙信も激しく抵抗しますが、そうでない場合は必要以上には戦わなったというわけです。
山梨県のひとは「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」とは武田信玄が残した言葉だと言います。
そして、武田信玄の軍旗である「風林火山」はとても有名ですし、甲府市で毎春開催される山梨県最大級の祭り「信玄公まつり」は毎年山梨県民のみならず関東や外国人の方も戦国武将になどに仮装して盛大に行われます。