天草フッシングⅡ

2022/1/5

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

頑張って、今年もブログを更新したいと思います。

12月29日に新幹線で帰省しましたが、新横浜駅から熊本駅まで自由席の通路まで満席状態でした。こんなに満席は久し振りでした。愛犬のココと一緒なので、飛行機に乗ることが出来ず、新幹線です。

帰省中のスケジュールは29日は大掃除そして30日は釣りです。夏休みにはたくさん釣れたのですが、残念ながら今回は海水温度が低くてそんなに釣れませんでした。遊漁船はいつもの砂原宮雄船長の宮田丸です。

30日の6時30分に宮田港を出港して1時間ほどで漁場に到着しました。漁場はいつもの八代海に浮かぶ長島と獅子島の海峡です。この長島列島は鹿児島県に属しています。ここは真鯛をはじめブリ、ヒラメ、アジ、ハンタ等の色々な魚種が釣れます。

たくさん釣れたのはハンタ(イラ)です。関東では珍しく入荷量が少ないので、一般的な魚屋さんで売られていることの少ない魚です。大型のわりには知名度が低いので、あまり自慢出来ません。ベラ科のなかでもイラ属は歩留まりが良く、とりわけ味がいいので、九州など産地では盛んに食べられています。

次にたくさん釣れたのは少し小ぶりの真鯛です。真鯛は釣りの対象魚としては、最高です、とても強くので、とにかく楽しいです。見た目もきれいですし、食べても刺身、煮魚、焼き魚、最近流行のアクアパッツァでもとても美味しいです。

ココダイ(コショウダイ)は大きくて引きが強くて釣りにはとても楽しい魚です。上質な白身で刺身、はじめどんな料理にも合うと思います。大型の魚には寄生虫が付いている場合があるので、料理の時にちょっと注意が必要です。

そして、よく釣れるのがカサゴ、最近は関東でも高値で取引されているらしい。たまに行く日野市の角上魚類では高値がついていてビックリしました。

帰りは波も少し穏やかになりましたが、風が吹いてかなり寒くなりました。改めて漁場の周りを見渡すと、長島列島の周りも風光明媚なところです。いつも、釣りに夢中になって周りを見渡す余裕がなかったのですが、改めて見るととても美しい所です。

長島列島と隣の御所浦島は恐竜の骨がたくさん発見されて以来、恐竜の島と呼ばれています。また、古くから柑橘類の栽培が盛んであり、日本で最初に温州ミカンが栽培された場所として知られています。

おかげさまで隣りの天草も早くから温州ミカンの栽培が盛んに栽培されていました。子供の頃からたくさんのミカンと魚を食べて育ったことに感謝しています。

 

バラの剪定

2021/12/23

12月に入り寒い日が続きますがいよいよ我が家のバラの選定の時期になりました。若い頃と違って高い場所に上るのが大変になってきました。剪定も誘引もなるべく低くしないといけなくなり、体力の低下を実感するようになりました。

バラの剪定はほぼ毎年恒例の12月にします。なるべく風が無く暖かい天気の良い日を選んで始めます。皮の手袋、剪定ばさみ、脚立、誘引用麻紐等を用意します。

剪定の仕方は簡単です。枯れたものや細い枝(鉛筆の太さ)はすべて剪定、そして残ってる葉もすべて取り除きます。バラを始めた頃はなかなか思い切って枝を切れなかったのですが、この頃はバラを咲かすには「枝を切ってなんぼ」と思っています。

次に枝の誘引ですが、しっかりと枝を曲げて固定することが大事、そうしないと、新芽も出ませんし、花も咲きません。特に世界でも人気のピエール ドゥ ロンサールは枝がとても太くなりますので誘引する時にはアルミ製の針金で固定します。

全体としてはバランスのとれた樹形になるようにします。しかし、何年経っても思う様に行きませんが、何事も経験だと思っています。

我が家のバラはカミキリムシの幼虫のテッポウムシに食い荒らせながら、みんな頑張っています。応接室の前にジェーンオースチン・アイスバーグ・ラベンダードリームと春になって花が咲くととても華やかです。

息子の車の駐車場にはクィーンエリザベス・パパメイアン・そして最近元気のないジェームズギャルウェイですが、3本とも虫に荒らされて元気がないです。

駐車場の横にはバレリーナが頑張っています。玄関の横にはとても上品な香りのマッカトニーローズ・そしてウッドデッキへの小道にはロココのアーチをくぐり抜けて 左手にはピエールドゥ・ロンサール右手には春がすみ・アンジェラと植えてあります。

擁壁にはつるピンクシフォン・ピンクプロスペリティ・そしてロサキネンシスです。

肥料は酸性になりがちですので、有機石灰と発酵牛糞、等の寒肥をします。後は春が来るのを待つだけです。今年も素敵な花が咲くのを楽しみにしています。

 

 

函館 五稜郭 Ⅱ

2021/11/19

「鎖国政策」と共に維持されてきた徳川幕府の権力は、「開国」を巡る国内対立を発端として翳りを見せ始めた。幕府に対立する西南諸藩の動きを抑えることもままならず、薩摩・長州両藩に討幕の蜜勅が出されたことにより、慶応3年(1867)徳川慶喜は政権を朝廷に戻し「大政奉還」をし、徳川幕府は崩壊した。

箱館御役所(五稜郭)では、明治元年(1868)5月、箱館奉行から明治政府の箱館裁判所総督へと事務の引継ぎが整然と行われ、幕府による蝦夷地統治の中心であった五稜郭は、元治元年(1864)6月の業務開始から、わずか4年で幕を下ろすこととなった。

明治元年(1868)正月、京都に於いて、「錦の御旗」を掲げた薩摩長州連合軍と旧幕府軍が衝突(「鳥羽伏見の戦い」)し、「戊辰戦争」が勃発した。江戸に向けて進軍を続ける薩摩藩長州藩などの連合軍に対して旧幕府軍の劣勢は明かで、江戸城の無血開城、上野の山に立て籠った彰義隊の敗走「上の戦争」などにより、陸軍はほぼ消滅した。

江戸城の無血開城を潔しとしない旧幕府軍の残存諸隊が、新政府に抵抗を続ける東北地方の諸藩を目指して相次ぎ江戸を脱走する中、旧幕府海軍の副総裁である榎本武揚は、当時最強の軍艦「開陽」をはじめとする無傷の幕府艦隊を江戸湾の品川沖に集結させ、新政府からの再三の軍艦引渡し命令にも従わなかった。

そして、徳川家の石高が十分の一に減らされたものの駿府での存続が認められたことを確認すると、艦隊を率いて江戸湾を脱走した。艦隊は、東北地方の諸藩が新政府に対抗して結成した「奥羽越列藩同盟」の支援のため仙台の松島湾に来航。

しかし時既に列藩同盟は相次ぐ同盟離脱・落城降伏により瓦解寸前。ここで、北関東から東北地方を転戦してきた「土方歳三」に率いられた新選組などの旧幕府軍の諸隊や抗戦を叫ぶ東北諸藩の部隊を艦隊に加え、蝦夷地へ向かった。

榎本武揚は蝦夷地渡航を前に明治新政府に対して、生活の糧を失った旧幕府家臣たちのための蝦夷地開拓の趣意嘆願をしており、同様の嘆願書を箱館府へ提出しようとしたが、10月22日、箱館府との間に戦端が開かれてしまった。

戦闘経験の豊富な旧幕府軍に対して迎撃する箱館府兵の抵抗は効果なく、敗報に接した箱館府は青森へ退避し、26日、旧幕府軍は無人となった五稜郭を占拠した。ここに五稜郭は旧幕府軍の本営となり、明治維新動乱の最後の舞台となる。

箱館を抑えた旧幕府軍は、明治新政府に与する松前藩に対して平和共存を訴えたが、松前藩は抵抗の動きを見せたため、「土方歳三」を長とする陸軍部隊を松前攻撃に派遣して11月5日、松前藩の福山城を制圧、松前藩主一行は津軽へと脱出した。

この間、陸軍支援のために松前に向かった旗艦「開陽」が日本海の風波によって江差沖で座礁沈没、さらにその救援に向かった軍艦「神速」も沈没するといった失態もあったものの、旧幕府軍は蝦夷地から新政府の勢力を一時的にせよ駆逐した。

函館戦争の終結後、函館市民の請願を受けて、五稜郭は公園として一般開放され、5000株の桜の苗木が植樹され、北海道でも有数のさくらの名所として現在に至っています。

幕末の「土方歳三」は現在の日野市に生まれ最後は箱館の五稜郭で散ったヒーローです。

高幡不動尊

2021/11/3

我が家の子供たちの七五三でいつもお参りしている高幡不動尊にお参りに行きました。たくさんの七五三の参拝客と一般の参拝客で大変、込み合っていました。

まず、私たち家族は御祈禱をお願いしました。お願い事は、家内安全、商売繫盛です。ご本尊(不動明王)の前でたくさんのお坊さんにお祈りをしていただきました。

高幡不動尊は関東三大不動の一つと呼ばれており、初詣から始まり、毎月28日の縁日をはじめ萬灯会などの年中行事に加え、境内4千数百坪と接続する山林と合わせて三万坪からなる敷地に織りなされる四季を彩る自然と景観風情の中で、アジサイまつり、紅葉祭り、などの催しもおこなれています。

今年は2年ぶりに菊祭りが行なわれていました。色々な種類の菊が咲きほこっていて、とても見事でした。

不動堂の本尊、重文丈六不動三尊は古来日本一と伝えられる総重量1100㎏を超えるもので、平成14年春、千年ぶりの修復作業が完了しました。

安永8年(1779)火災に遭い、門末三十六ケ寺を従え関東地方屈指の大寺院であった金剛寺も大日堂をはじめ大師堂、山門、客殿、僧坊等を一挙に焼失してしまいました。

復興は徐々に行われてきましたが、特に戦後、仁王門、不動堂の改修から特に昭和50年代から五重塔の建設、宝輪閣、奥殿の新設など境内の充実には目を見張るものがあります。

高幡不動尊のある日野市は新選組の土方歳三の出身地であり、高幡不動尊は菩提寺ですので、故新選隊士 近藤勇 土方歳三の碑があります。

明治政府は戊辰戦争に関係した東軍の戦死者の墓碑の建立や供養を禁止しました。この禁が解けた明治九年に元隊士・永倉新八が中心になって板橋刑場の側に近藤・土方ら新選組隊士の供養墓が建立されました。

同じ年に日野でも高幡山前住賢雅和上や日野宿の佐藤彦五郎を中心に「近藤・土方の忠節を顕彰する碑」を高幡山境内に建てることが計画されました。

しかしその内容が当時賊軍扱いにされていた両氏の顕彰碑だったため碑が完成しても建立の許可が得られず、実際に建てられたのは明治21年です。

最後の将軍徳川慶喜は、歳三の「唯死あるのみ。即ち貫典に処すとも吾何の面目あって、また昌宜と地下にまみえんや!」との文言のある碑文を読み、無言のまま涙したと言われています。

土方歳三銅像は、今弁天池入口で高幡不動を訪れる人々を見下ろすように立っています。この像は平成7年、日野市ロータリークラブが郷土史家の協力のもと歳三の姿を現代に蘇らせたものです。

来週は歳三の最後の地である函館の五稜郭を訪ねてみます。

 

善光寺参り

2021/10/24

日曜日の朝 目覚めたら突然善光寺参りをしたくなり、奥さんを誘って二人で甲斐・善光寺にお参りに行きました。我が家の菩提寺「円性寺」と同じ浄土宗のお寺です。

信州・善光寺は一度お参りしたことが、有り今回は甲斐・善光寺にお参りに行きました。帰省した時に時々「円性寺」にお参りするくらい程度であんまり信心深くないのですが、去年 母の三回忌、をはじめ父、祖母の法要で大変お世話になりました。

そのことで、突然善光寺にお参りしたくなったのかもしれません。コロナもだいぶ落ち着いた快晴の日曜日ですので、中央高速道は相当渋滞を覚悟で出かけました。でも運良く、渋滞もなくもう少しで高速の出口近くでタイヤの空気圧が異常のアラームが付きました。

やばい!タイヤがパンクだ!でも、この車はランフラットタイヤをはいているから、しばらくは大丈夫だと分かっていますがかなり不安です。時速80kmでゆっくりと走ってやっと、勝沼ICに辿り着きました。

スペアタイヤはもちろん積んで、いないので高速を勝沼ICで出てすぐのGSに入りましたが、タイヤが売っていないとのこと大変困りました。諦めてこのまま八王子まで、帰ろうかなと思った時、嬉しいことに100m程先にイエロハットの看板が見えたので喜んで行きました。

まさに世の中、捨てる神あれば拾う神あり(タイヤの点検をせずに車に乗り続けた自分が悪いのに)と思い「信心してれば」世の中悪いことばかりでは無いと思いお店に飛び込みました。しかしながら、ここにはランフラットタイヤは無いとのこと一難去ってまた一難!しょうがないのでノーマルタイヤを買うことにしました。

タイヤ交換に2時間ほどかかるとの事、ちょうどお昼なのでイエロハットの隣のラーメン屋で食事をすることにしました。今日は甲府のお寿司屋さんは美味しいと有名なのでお寿司を食べたかったのですが、緊急事態なので仕方がありません。

タイヤの交換も終わり食事も済ませたので、さっそく善光寺にお参りに向かいました。立派な山門(重要文化財)を抜け本堂に向かい まずは、社務所で御朱印帳を書いて貰いました。

甲斐善光寺(重要文化財)は永禄元年(1558年)、合戦により信濃善光寺の焼失を恐れた武田信玄が本尊善光寺如来をはじめとする寺宝を山梨群板倉郷に移したことに始まる。永禄8年(1565年)に本堂が完成し、仮堂に収められていた善光寺如来の入仏供養が行われたという。

江戸時代の甲斐善光寺は徳川家の庇護を受け、本坊三院15庵を有する大寺院として栄えたと言われています。本堂(重要文化財)で家内安全、商売繫盛、社員安全を祈願して家路につきました。